でもまだ梅雨は明けてないようですね。
そんな猛暑の7月、ブラウニーズに訃報が舞い込みました。
”任天堂の岩田社長逝去”
体調がかなりよろしくないとゆうお話は
風の便りで聞いていましたが
時折、表舞台にも顔を出していましたし、
何よりも社長交代や社長退任のニュースが流れて来ませんでしたので
手術後、良好な方向に向かっているのだと思っていただけに
とてもショックでした。
岩田さんと始めてお会いしたのは、
以前の職場ブラウニー・ブラウン時代。
”「MOTHER3」を復活させようとゆう話があがってるのだが、
ブラウニー・ブラウンで引き受けてもらえないか?”
とのお話を頂き、
3Dで開発が進んでいたNINTENDO64版「MOTHER3」を、
従来のMOTHERテイストである2Dドットグラフィックとして
ゲームボーイアドバンス用に落とし込む為の提案書を作り、
任天堂へプレゼンテーションに行った際、
宮本さんの隣に岩田さんはいました。
当時、役職はまだ取締役でしたが
実はこの時まだ、岩田さんとゆう人がどのような方なのか
全く知らなかったのでした。
ただ、驚いたのは
それまで幾度となく任天堂へプレゼンをしましたが、
宮本さんよりも先に意見を述べた方は、
この時、岩田さんが始めてだったのでした。
「よくキレイにまとめて下さいました。
MOTHER3をよろしくお願いします。」
とのありがたいお言葉を頂いたのですが、
岩田さんの存在を知らなかった自分は、
宮本さんの意見も聞かずに決定しちゃってるけど、
この人は誰なんだろ?と、
多分、キョトンとした顔をしていたと思います。
その後、任天堂の人に岩田さんとMOTHERシリーズとの関係、
そして任天堂の次期社長候補だとゆう話しをお聞きました。
ウワサ通りその数ヶ月後、まだMOTHER3の開発中に岩田さんは
任天堂の社長に就任し、雲の上の人となってしまったので、
もう岩田さんとはお会いする機会もないだろうと思っていました。
その頃「MOTHER3」が段々形になっていくに従って、
いろいろと問題も起き始めました。
まぁ以前開発中止となったタイトルなので、
そんなにすんなりと開発が進むはずもありません。
そんなある日、
またしてもMOTHER3が、再度開発中止になるかどうかとゆうような
問題にぶつかった事がありました。
その時、岩田さんから「糸井さんとの会議に参加させて下さい」と連絡があり、
当時、任天堂の社長就任直後で超多忙な時期にもかかわらず
時間を作り吉祥寺まで来てくれました。
そしてガッツリ1日糸井さんとの会議に参加し、
糸井さんのやりたい事の方向性、必要性を納得した上で、
ミーティング終了後、
「すみませんが、
最後まで糸井さんにお付き合いお願いします。」
と、言葉を残して京都へ帰って行かれました。
憶測ですが、その後京都に戻り重要な経営会議的な場で
全ての責任は自分がもつので「MOTHER3」の開発は続行します。
と、ゆうようなやり取りがあったのではないでしょうか。
その後も何度か大きな波に呑み込まれそうにもなりましたが
「MOTHER3」は無事に発売する事が出来ました。
それが岩田さんとの一番大きな思い出です。
本当にお会いしたのは数える程なんですが、
MOTHER3開発時、糸井さんを始め
かつてのMOTHERシリーズ開発関係者の人たちからも
岩田さんの逸話を聞く機会が多々あり
もっともっとお会いしたような錯覚をおこしています。
いろいろな方から岩田さんの話を聞いていると、
勿論経営者としての才覚も天才的におありでしたが、
開発者としての能力もとても高く、
HAL研で、あのままもう少し開発寄りな立ち位置で
ゲーム開発に携わらせてあげた方が幸せだったんじゃないかな、
とか思ったりもしました。
その後、自分は自分の都合で
任天堂と交わした杯を返杯してしまい、
山内さんに続き、まさかの岩田さんにも恩を返せぬまま
お亡くなりになられてしまわれた事は
本当に残念でなりません。
ブラウニー・ブラウン退社の際、無理を言っても
岩田さんにも、ご挨拶をさせて戴く時間を作ってもらえば良かったと、
そのことだけが悔やまれます。
いろいろとご迷惑をおかけしました。
ゆっくり、のんびりと
わがままにおだやかなお時間をお迎え下さい。
ありがとうございました。